私の母、西田律子は60歳の時近所のスーパーの二階の絵画教室に興味をもって出かけ、一度で油絵を描くのが好きになり、亡くなる少し前まで約23年間絵を描きました。
母は風景画が好きで、立山連峰や剣岳等の山々、富山の河川や平野、草木等の富山の自然を描いた風景画を多く描きました。まだ2、3年絵を描きたいと言っていましたが、5年前病気で亡くなりました。
私は母の病気がわかってから会社を休職し亡くなるまで付き添いましたが、傍にいただけで何もしてやれず、本当に無力感を味わいました。
一年後に私は会社をやめて富山に帰り、母と同じように絵を描くようになりました。絵を描いている時、母が外でスケッチをしている姿や家で一生懸命に描いている姿が思い出され、母は絵を描いている時が一番楽しい時だったのだろうと思いました。私は絵に対する母の想いを考えると、残してくれた母の絵を誰かに見てもらいたいと思うようになりました。母は生涯で500枚以上の絵を描いたと思いますが、描いた絵をその都度多くの方にあげていましたので、家には初期の作品と70代後半以降の作品120枚位しか残っていませんでした。その中から85枚を選びこの度画集を作成しました。作成した画集を基に今回ホームページを作りましたので皆様に母の絵を見ていただければ有難いと思っています。
平成20年12月 西田亨子(西田律子の二女)
私の母、西田律子は60歳の時近所のスーパーの二階の絵画教室に興味をもって出かけ、一度で油絵を描くのが好きになり、亡くなる少し前まで約23年間絵を描きました。
母は風景画が好きで、立山連峰や剣岳等の山々、富山の河川や平野、草木等の富山の自然を描いた風景画を多く描きました。まだ2、3年絵を描きたいと言っていましたが、5年前病気で亡くなりました。
私は母の病気がわかってから会社を休職し亡くなるまで付き添いましたが、傍にいただけで何もしてやれず、本当に無力感を味わいました。
一年後に私は会社をやめて富山に帰り、母と同じように絵を描くようになりました。絵を描いている時、母が外でスケッチをしている姿や家で一生懸命に描いている姿が思い出され、母は絵を描いている時が一番楽しい時だったのだろうと思いました。私は絵に対する母の想いを考えると、残してくれた母の絵を誰かに見てもらいたいと思うようになりました。母は生涯で500枚以上の絵を描いたと思いますが、描いた絵をその都度多くの方にあげていましたので、家には初期の作品と70代後半以降の作品120枚位しか残っていませんでした。その中から85枚を選びこの度画集を作成しました。作成した画集を基に今回ホームページを作りましたので皆様に母の絵を見ていただければ有難いと思っています。
平成20年12月 西田亨子(西田律子の二女)